【2017年6月10日】

週末サービス!? 戦国妖狐綺譚 長めの出だし公開

戦国妖狐綺譚 井の中の井守/おりょう

第一章30ページまで大公開

第一幕 終の棲家から/迷い家
――天正六年(一五七八年)五月一三日
雲ひとつない上空に現れた、麗らかな緋天。
昼夜の境界たる刻限を迎え、人々は一日の労働を終えて帰路につきはじめている。
視界が暗くなると畑仕事ができなくなる、という事情もあったが――それ以上に、彼らは恐れていたのだ。人非ざる存在、魔的な存在である妖怪に出会うことを。
人々は夕焼けが現出する時刻を、『黄昏時』あるいは『逢魔時』と呼んでいる。
読んで文字の如く、人魔が出会う場としてこの時間帯は認識されていたのだった。
『キキキッ、キキキキキッ』
日本列島の東北部、奥州遠野地方。その山中から身の毛もよだつ恐ろしい声が響いていた。甲高く、悍ましい鳴き声だ。
「…………」
おどろおどろしい声に導かれるようにして、ひとりの男が山林を歩んでいた。
山の木々は生命力にあふれ、枝葉は大きく張り出している。その木陰から零れる黄昏時の緋光が、山を進みゆく者の姿を淡く浮かび上がらせていた。
全身を暗色の忍び装束で固めた、壮健な若者である。
背中に二本の忍者刀を装備しているが、最も特徴的なのは――マフラーのように首に巻いている、黒染めのボロ布だろう。
眼光鋭く、若いながらに苦み走った顔付きの青年は、名前を天蔵と言った。
急勾配の道なき道。草木の生い茂る山の斜面を登っているというのに、彼の顔には乱れたところがまるでなく飄々としている。
「……こっちだな」
時折り悍ましい鳴き声が響く――ということを除けば、山林は異様なまでに静まり返っていた。
獣の唸り声も、鳥のさえずりもない。黄昏時を象徴する、烏の鳴き声すら聞こえてこなかった。
とはいえ、この状況は天蔵にとって歓迎すべきものだ。
異形の甲高い鳴き声を追うには、絶好の環境なのだから。
(なるほど、この山林の動物たちも……奴を仕留めて欲しいと望んでいるのか)
青年がそんなことを思ったその時だった――
『キキキッ、キキィッ』
――また、あの声が聞こえたのは。
「……近いな」
忍び装束の青年は足を止め、身を伏せた。
言うまでもない、かなり近いところから聞こえてきたのである。
よく目を凝らせば、生命力豊かに生い茂る木々の向こう側に――明らかに人の手が入り、均された広場があった。
悍ましい鳴き声は、そこを発信源として山中に拡散しているらしい。
天蔵は身を屈め、音を立てないように細心の注意を払って広間へと接近していく。
「……なるほど、廃棄された山寺だったのか」
樹木の影から広間を覗くと、こぢんまりとした廃寺の姿を確認できた。
屋根の瓦は多くが落下しており、残っているものもすべてヒビ割れている。むしろ、瓦で覆われているというよりも雑草に覆われていると言った方がより適切で、見るからにして廃墟感が漂っていた。
材木も、長い間風雨にさらされたことによって完全に劣化し、朽ちはじめている。
だが、こういった山寺は――今の日ノ本では、そう珍しくはない。
世は戦国、人心乱れし修羅の時代である。
日本各地には、飢饉や戦乱によって維持する者が喪われ、結果として歴史から忘却された信仰の場が、未だ多く点在しているのだ。
『キキキッ、キキィッ』
「……で、あのなかに潜んでいると――そういう訳か」
天蔵は身を隠せる場所を選びながら、ゆっくりと慎重に廃寺へと迫っていく。
(それにしても……なんだ、この異臭は……)
青年忍者は思わず顔をしかめていた。
廃寺に近付くたびに、腐乱死体から放たれているような異臭が強まってくるのである。
いったい何が原因なのか……
理由を調べるため、青年は目を凝らし、朽ちかけた建造物の内部を窺いはじめた。
「……なんてこった」
だが、そこでは我が目を疑う光景が広がっている。
室内には八人の、うら若い村娘たちがいた。
外見からして、おそらく嫁入り前だろう。
そして、彼女たちは全裸だった。黄ばんだ特濃精液にまみれ、その股座では巨大な触手が激しく抽送している。
村娘たちはすでに虫の息で、今すぐに助けても――命を救うことはできないだろう。
女たちを犯しているのは、一匹の異形だった。全身が毛むくじゃらの、肥大化した猿のような怪物である。
両腕は極端に長く、両足は極めて短足。
その短い足の付け根からは、無数の触手状の生殖器が生えている。それらを巧みに操り、女たちの四肢を拘束し、凌辱しているという訳だ。
(間違いない、こいつだな――人里におりて、若い女を攫っている妖怪とやらは……!)
青年は義憤で顔を歪ませる。
だが、怒りに身を任せて飛びかかるような真似はしない。
冷静さを欠いた状態では、何も上手くいかないことをよく承知しているのだろう。
『キキッ、キキキキキキキキキキキィッ』
村娘たちを好き放題に凌辱している怪物が、あの悍ましい鳴き声を上げる。
途端、女たちを犯している触手状生殖器から、大量の黄ばんだ精液が噴出した。
四肢を絡め取っている触手という触手からも白濁液が飛び散り、村娘たちの内外を汚汁で穢し抜いていく。
『キキ……キキィ』
その光景を見て、天蔵は納得した。
先ほどから山林に響いていた悍ましい声は、この鬼畜毛玉が射精するたびに漏らしていた嬌声だったのだと。
そして廃寺の周囲一帯に漂う腐敗臭は、妖怪が撒き散らした精液の臭いだったのだ。
(なんて野郎だ……)
天蔵の怒りなど露知らず、妖怪は、攫ってきた女たちを相手にたっぷりと射精したことで満足したらしい。
ずるりと生殖器を村娘たちから引き抜き、腐乱臭を放つ精液が奔流のように――破壊された膣孔から噴き出てくるのを観察している。
『キキ……キキキキキキキキキキキッ』
だが、飽きたのだろう。
妖怪はむっくりと身を起こし、哀れな村娘たちに長大な腕を伸ばした。
そして八人の女体をがしりと掴むと、大きく口を開ける。
そう、あろうことか――己の精液漬けになっている村娘たちを、丸呑みしてしまったのだった。『キキキ……ィ』
剛毛に覆われた腹をさすりながら、大きくゲップをかます鬼畜毛玉。
衝撃の光景が去り、改めて室内に目を配れば、怪物の足元には――大量の人骨が転がっているのが見える。
この妖怪は初犯ではなく、これまでも多くの女たちを攫ってきていたようだ。
(今すぐにでも叩き切ってやりたいが――掟がある、仕方がない……)
天蔵は音もなく、異臭溢れる廃寺へと歩み寄っていく。
妖怪は射精の快感に酔いしれ、すっかり警戒心を失っていたらしい。
まともに注意を払っていれば、すぐに天蔵の姿を確認できたはずだ。しかしこの毛むくじゃらの妖怪が青年に気付いたのは、彼が廃寺の入り口で仁王立ちになった――まさしくその時だったのである。
『ンキィッ!?』
相当驚いたのだろう。
鬼畜毛玉は天蔵を見るや否や――びくりと身体を竦ませ、ブリッと大きな放屁をかました。
それから慌てて天蔵に相対し、赤々と発光する両眼を向ける。
かなり恐ろしい容貌をした化物なのだが、青年は場慣れしているのか、実に落ち着いた様子だった。
ゆっくりと、鬼畜毛玉に向かって声をかける。
「……多くの年月を重ねた獣のなかには、ごくまれに、魔へ転ずるものが現れる。そんな輩を、遠野地方では『経立』と呼ぶらしいが――」
『ウキキッ』
「――なるほど。容姿と鳴き声から判断するに、以前は猿だったのだな……お前は」
逢魔時の夕闇を背景に、天蔵は妖怪に問う。
風が吹き、青年が首に巻いているボロ布をたなびかせた。
『キキキキキッ、ウキキキキッ』
「だが、いつまで物のわからぬ猿の真似をしているつもりだ」
警戒の声を上げる経立を睨みながら、青年は強い口調で訊く。
「すでに聞いているぞ。経立は人語を解し、そして操ることができると」
『…………』
「答えろ。お前はなぜ、若い女ばかりを攫う」
野猿の成れの果て。毛むくじゃらの化物は、青年に愉悦の顔を見せる。
そして上下に大きくぐばぁと口を開き――腐乱臭を撒き散らしながら、人語を話しはじめたのだった。
『クウ ハラヘッタ ダカラ クウ』
「…………」
『オンナ ヤワラカイ ダカラ クウ オトコ カタイ ダカラ クワナイ』
「……で?」
天蔵の殺気が籠った問いに、経立は放屁をしながら応じる。
『ソレニ オンナ オカス キモチイイ オトコ オカス キモチ ヨクナイ』
鬼畜毛玉は、股間をぼりぼりと掻きむしりながら続けた。
『ダカラ オンナ オカス オカスト ハラヘル ダカラ クウ』
青年が怒りを蓄えたまま、静かに佇んでいるのを見て――経立はにっこりと、おぞましい笑みを浮かべた。
『オレ シアワセ』
「……なるほど、更生の余地はないらしい」
青年は黒の瞳を閉じ、静かに息を吐き出す。
それからゆっくりと――毛むくじゃらの妖怪に、言葉を投げかけた。
「お前の行いには、遠野に生きる他の妖怪たちが迷惑しているそうだ。お前一匹のせいで自分たちも人間から憎まれかねないと……河童たちから、そう言付かっている」
『ンヒヒヒッ』
経立は青年を煽るような、嘲笑するような声を上げた。
構わず、天蔵は訊く。
「最後に尋ねよう。お前は、人攫いを止めるつもりは――ないのか?」
『ンヒヒッ、ウキッ、ンホホホホホホホッ』
異形の妖怪は、己の胸を両腕で激しく叩きはじめた。威嚇を主目的とした、ドラミングである。
ドコドコドコドコドコと凄まじい勢いで胸を打ち鳴らす経立は、きっと、天蔵を怯えさせようとでも考えているのだろう。
事実、それは極めて異様な姿であり――一般人であれば、恐怖のあまりひっくり返っていたかもしれない。
だがしかし、天蔵は一般人ではなかった。
あるいは、人としての理から――すでに、大きく足を踏み外してしまっている男だったのだ。
「……交渉は決裂した」
青年は背負っていた二本の忍者刀を引き抜きながら、告げる。
「人魔不干渉、並びに遠野の掟を破り、更生の余地がないお前は――殺すしかない」
『ンホホッ、ンホホホホホッ』
やれるものならやってみろ――そんな鳴き声を上げると、経立は全身を一気に膨張させた。
内側からの圧力に、朽ちた山寺が耐えきれるはずもない。爆音と共に破砕され、バラバラと廃材を飛び散らせる。
そのなかから現れたのは、膨張し、巨大化した鬼畜毛玉。
逢魔時に姿を現した巨体は、ズゥンと地響きを立てながら立ち上がった。
『ンホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホホッ』
夕闇に響き渡る、異形の声。
激しくドラミングを繰り返しながら、雄叫びを上げる巨体。それに驚いたのか、遠野の山々から一気に野鳥がバサバサと飛び立っていく。
そのなかで天蔵は、赤眼を爛々と光らせている経立を静かに見上げていた。
「大きくなれば万事解決――という訳ではあるまいに」
そう呟いた次の瞬間、天蔵は回避行動を取っている。鬼畜毛玉がその長大な毛むくじゃらの腕を、一気に振り下ろしてきたからだ。
刹那、弾け飛ぶ山の斜面。土塵が巻き上がり、自生していた木々や雑草が粉砕され、飛散する。
その状況下――天蔵は経立に突撃していた。そして、大きく跳躍する。
「それでは――ただ、的が大きくなっただけだッ!」
煌めく二つの刀筋。青年の忍者刀は、確実に経立の左肩を捉えていた。
しかし、その刀は鬼畜毛玉の身体を切り裂くには至らない。あろうことか、忍者刀は根元から折れてしまっていた。経立の表皮や体毛が、あまりにも硬すぎたのだ。
折れた刀身。そこには驚愕からか、大きく見開かれた青年の黒い両眼が映っている。
『ンホ、ンホホホホッ』
嘲笑うかのように鳴くと、経立は大きく腕を振り払った。
空中である。天蔵に回避する術などない。青年の身体は地面へと叩きつけられた。
凄まじい地鳴りと衝突音。土塵が高々と巻き上がり、鬼畜毛玉は勝利宣言をするかのように咆哮し、激しくドラミングしている。
事実、常人であれば――もはや青年の身体は原形を留めていないはずだ。バラバラになっているか、あるいはぺしゃんこになっているか、その二択しかない。
だがしかし、天蔵は常人ではなかったのである。
『事前に聞いてはいたが……ここまで硬いとは思わなかったぞ』
『!?』
何事もなかったかのように、ゆっくりと、夕闇のなかで立ち上がる青年の影。
その姿を見て、毛むくじゃらの妖怪は狼狽えるしかない。
だが、異形が動揺を露わにしたのは、天蔵が立ち上がったという事実に対してだけではない。青年の容貌が、先ほどまでとはすっかり変わってしまっていることの方が――冷静さを失わせる理由として大きかったのだ。
『ナッ ナンダ オマエハ』
思わず――といった態で、経立が人語を発する。
その巨体は完全に引き気味で、怖気付き、じりじりと後ろへ後退していた。
『さて、なんだろうな』
青年は恐怖に支配された巨大な妖怪を見上げながら、嗤う。
愉しそうに歪む口からは、鋭い犬歯が覗いていた。黒かった頭髪も、すっかり白銀に変色してしまっている。
『オマエ ニンゲン デモ チガウ コレハ――』
『遅かったな、気付くのが』
変質した天蔵は、ゆっくりと拳を握りしめながら告げた。
『もう、手遅れだが』
そう呟いた刹那――経立が視認できないほどの速さで跳躍し、青年はその右拳を突き出している。
途端、穿たれる異形の左眼。鬼畜毛玉が苦悶に呻く暇もない。天蔵は左手を経立の右眼に突き入れると――妖怪の頭のなかで両手を重ねた。
まるで仏に祈るように。あるいは、効率的に経立の頭蓋骨を破壊するように。
そうして、頭のなかをぐちゃぐちゃに圧迫され――声もなく、呆気もなく、鬼畜毛玉は絶命する。
崩れ落ちる巨体。巻き上がる土塵。そのなかで立ち上がったのは――人の姿をした青年だった。狐鬼のような姿は、もうどこにもない。
『……外道め』
妖怪の骸を打ち捨てたまま、天蔵は遺骸を顧みることもなく、ゆっくりと山を下りはじめている。その入れ違いに、餓鬼をはじめとした魑魅魍魎が――猛烈な勢いで山を駆けあがっていった。
もう、天蔵の役目は終わったのだ。後始末は、死肉を喰らう彼らに任せればいい。青年が次いで為すべきは、依頼者への、任務完了の報告である。
「しかし、帰るのは遅くなりそうだ……」
話し好きの依頼主たちの姿を思い浮かべながら、天蔵はため息をついた。とはいえ、彼らの許へ行かなければ締まるものも締まらない。
「早めに解放してくれるとありがたいが――河童たちは遠野の最有力者。今後のためにも、機嫌は取っておかないとな……」
天蔵は改めて、己の務めを自覚する。
時折現れる、掟を破る妖魔たち。彼らの更生の余地を見極め、更生不可能と判断される場合にはすぐさま始末する――という役目についてを。
退魔忍。自ら同胞に手を下すことを嫌う遠野の妖怪たちに代わり、汚れ仕事を引き受ける者。
それは、迷い人である天蔵が、遠野地方で先住者たちに受け入れてもらうための唯一の方法であり職務だった。
そして天蔵としても、妻や娘との平穏な生活を維持するために――その役目を受け入れる以外、他に手段はなかったのである。

◆ ◆ ◆
その屋敷は、外界から遮断された結界のなかにあった。
遠野地方の名高き霊山・六角牛山。山林豊かで壮麗な場所。
夫である天蔵に従い、千代女がこの地に越してきたのは――ちょうど半年前のことになる。
条件付きではあったが、部外者である自分たちに対し、定住許可を下ろしてくれた寛容な遠野の妖怪たちには感謝していた。
もとより日ノ本の妖怪たちからは、その特性ゆえに危険視されてきた千代女である。
家族との穏やかな生活。それを享受できる現在を、彼女はとても幸せに思っていた。
「今日こそ、絶対に負けないんだから……っ」
そんな母親の想いなど露知らず、天蔵との間に儲けた愛娘・初代は、独楽を片手に鼻息を荒くしていた。
このお転婆で負けず嫌いな一人娘は、今年で五歳になる。そして、千代女の幼い頃と瓜二つの容貌をしていた。
豊かな亜麻色の髪は柔らかく、肌の色は新雪のように白い。頭から突き出している狐耳と青い瞳が、人非ざる者であることを示している。
「よく言うでしょう? 弱い犬ほどよく吠えると」
「犬じゃないもん! 犬じゃないもん!! 母さまと同じ、狐だもんっ!!」
「……そんなつもりで言ったのではないのだけれど」
子供用の巫女装束に身を包み、独楽を握りしめながら闘志を漲らせている愛娘。その可愛らしい姿を見て、思わず苦笑をもらす千代女。
今母子が勝負をしようとしている遊びは、『喧嘩独楽』だ。
端的に説明するならば、回した独楽をぶつけ合い、土俵の外へ相手の独楽を弾き飛ばした者が勝つ――という簡単なルールの遊戯。
千代女がこの遊びを知ったのは、遠野に越してきてからのこと。編み物に飽きた娘の相手をするのに、格好のツールとなっていた。
「今日はね! ぜーったいに負けないの! 負けるはずがないの!!」
「あらそう、随分な気の入り様だこと」
「だって! ししょーに弟子入りしたんだから!」
「師匠……?」
娘同様、巫女装束を纏っている千代女は首を傾げてみせる。柔らかな亜麻色の髪が風に乗り、ふわりと舞った。何者かの接近を察知した狐耳が、ぴくりと動く。
『おや、やっておるね』
バサバサという羽音と共に、巨大な何かが飛来する。その姿を見て、初代が歓声を上げた。
「あっ、ししょー!」
「師匠……あぁ、なるほど。あなたでしたか」
その飛来した巨体を見て、千代女は得心した顔を見せる。
それは、巨大なコノハズクだった。身長一〇尺(約三メートル)はあろうかという巨大なメスの梟。遠野地方では『オット鳥』と呼ばれる物の怪である。
だがしかし、単なる妖怪ではない。六角牛山で生活をしている千代女たちが不審な動きを見せた際――すぐさま対応可能な、強大な妖力を持つ存在でもあった。
妖怪に転ずる以前は人間だったというこの巨大なコノハズクは、同時に、千代女たちのよき相談相手でもある。
彼女たちの暇つぶしになるよう独楽を教えたのは他でもない、このオット鳥だった。
『千代女殿、今日の私は娘御の応援に参った。悪く思わないで欲しい』
「それは構いませんけれども……何か、初代に入れ知恵でも?」
千代女が独楽を握り直しながら訊くと、オット鳥は愉快そうに鳴く。
『なに……昨日、娘御が泣きながら独楽の練習をしていたので気になったまで。聞くに、〈ずっと母さまに勝てないの!〉とのこと。さすがに七勝二四敗という話をされると憐れに思い、教導させていただいた次第』
「そういうことですか」
苦笑しながら、千代女は、自信満々な愛娘に視線を向ける。
「いいのよ、初代。今日、もし仮に――罷り間違ってあなたが勝ったとしても、八勝二十四敗という結果になるだけなのだから」
「ぐ……ぐぬぬ……っ!」
『なんと大人げのない』
独楽を手に火花を散らす母子を前に、オット鳥が呆れたような声を上げた。
その発言を聞きとがめた千代女は、びしっと指を差しながら問う。
「ふざけないで。これは妾にとって、死活問題なのよ」
『我が子に、遊びで、本気で勝ちに行くほどのものなのか?』
「あなた、夫がいたわよね? 妖怪に転じてまで探し求め、ようやく見つけた夫が」
『それが何か?』
千代女は極めて真面目な貌で問う。
「そこまで愛している夫の体温を感じられない夜を――あなた、どう思う?」
『気が狂いかねないな』
「そ、ならわかったでしょう? この勝負は、そういうことなのよ。褥の位置取りを決める、真剣な勝負なの」
『…………』
「『川の字』の真ん中の『ー』に妾が入るか、初代が入るか……それをめぐる喧嘩独楽なのよ!」
独楽を突き出しながら言い放つ千代女。
オット鳥は彼女から視線を外し――極めて真面目な表情で、初代を見つめた。
『娘御よ』
「…………」
『全力で勝ちに行くのだ』
「はいっ!」
「!? なんだかんだであなたは味方だと思っていたのに!!」
『ど阿呆。斯様にくだらぬことで実の娘と争うとは、どれだけ惨めで浅ましい女なのだ、貴様は』
本気でショックを受けている様子の千代女に、巨大な梟は憐みの目線を向ける。
『これが日ノ本の生み出した『千代女』の実像とは……。まったく、いささか警戒しすぎなのやもしれぬな、我らも』
「うっ、うるさいわね……! 言ったでしょう!? 死活問題なのよ!!」
『……と言っているが、どうだ娘御。それでも母御に勝つつもりか?』
「負けないもん! わたしが絶対に勝つんだもん! 父さまの隣は、わたしのものだもんっ!!」
『では、その気迫を憐れな母御にぶつけるがよい。この者に大義はない、あるのはただ色欲だけだ。母御を打ち破り、父御の隣を勝ち取るのだ』
オット鳥にけしかけられるようにして、相対するふたり。
戦いの場は、千代女によるお手製の土俵である。
土俵の上に作られた円。その内側に置いた独楽の傍で、母子は鞭をしならせた。
ふたりの間に漂う緊張感。そして互いの呼吸と間合いが合った時――母子の鞭を持った腕が、同時に振るわれる。
側面をビシッと叩かれ、回転をはじめる二つの独楽。
千代女も初代も、しばらくは、己の独楽の回転力を強めることに専念していた。
だがしかし、その状態がいつまでも続くことはない。
頃合いを見て、鞭で独楽の軌道を操作しながら――激しくそれをぶつけ合いはじめたのである。
「んふー。だめだめ、だめだよ母さま。そんな独楽じゃわたしには勝てないよっ」
「なにを……っ!」
ちなみに、戦国時代における独楽遊びは――紐を使って回すことは、基本的にない。
千代女や初代が興じているように、鞭で独楽の側面を叩いて回す『ぶちごま』が主流だったのである。
「やった! わたしの勝ちだね母さまっ!」
「もっ、もう一回! もう一回よ初代っ!」
土俵の外へ弾き出された独楽を拾い、本気で悔しがっている千代女を前にして、初代は不敵な笑みを見せる。
そして母親の再戦を大仰に認めると、王者の風格を漂わせながら――己の独楽を鞭で引っ叩き、回しはじめた。
「んふふー、母さまはもうわたしに勝てないんだってば。なんたってわたしには、ししょーが教えてくれたとっておきの回し方が――奥義があるんだからっ。回転数も持続性も、母さまの独楽はもう、わたしの足元にも及ばないの!」
「このっ……負けるものですか!」
やっきになって独楽を回しはじめる千代女。
だがしかし、娘に言われたように――たしかにその独楽は、初代が回すものよりもはるかに貧弱だった。
「ああっ……そんな……」
そしてまた、巧みに独楽を操作してぶつけてくる初代に完敗を喫してしまう。
これで娘との戦績は、通算二四勝九敗になってしまった。あと一敗でもすれば三連敗、二桁敗北である。
「ちょ、ちょっと!」
『どうした、哀れな負け狐。はじめる前の威勢のよさはどこへ行ったのだ?』
母子の戦いを観戦していた巨大なコノハズクに、千代女が叫んだ。
「!? 妾にも教えなさいっ!!」
『と、言っているが……どうする、娘御よ』
首をぐるんと回し、初代の方を見るオット鳥。
狐耳の美幼女は、両手を腰に当て、薄い胸を張りながら応じる。
「んふー。教えちゃだめ、絶対にだめ。なんたって母さまには、今まで何度も何度も煮え湯を飲まされてきたんだから!」
「初代が今まで何度も何度も飲んできたのは、妾の乳でしょうに!」
「うぐっ。でっ、でもでも絶対に教えちゃだめなんだからね! 母さまは父さまのことになると他がまるで見えなくなっちゃうから、これでちょうどいいくらいの!」
『うむ。栄枯盛衰、驕る平家は久しからず。千代女殿、聊か勝ちすぎたようだの』
「そんな……!」
悲痛な声を上げ、目のハイライトを次第に喪失させていく千代女。
夜、褥を夫の横に引けなくなることは――どうやら、彼女にしてみると絶望の極みにある事態らしい。
『それにしても、なぜそこまで落ちこめるのだ』
両手両膝を突いて項垂れている千代女を見ながら、梟は呆れたような声を上げた。
たしかに夫の傍で、腕のなかで眠りにつけないことは不幸だが、子供を挟んで寝るのもまたよいものではないか。実に理解し難い――この巨大なコノハズクは、そんなことを思っている。
「あなたは、知らないのよ……」
混沌としたオーラを周囲に振り撒きながら、千代女は言う。
「二四〇〇年の孤独から、ようやく巡り会えた夫との添い寝の喜びを……! いくら愛する娘とはいえ、夫を独占されるのは嫌なのよ……!」
『まさしく、生きる化石だの……。だが夫を独占しようとは、懐の浅い……』
キッ! とオット鳥を睨みつける千代女。
腐っても鯛、沈丁花は枯れても芳し。
すでにその力、その使命を事実上放棄したとはいえ……
目の前で娘との勝負に本気になっている狐姫は、日本列島が大地の意思として生み出した――生きとし生けるすべての生命を無に還す力を蓄えし、今代の破壊神である。
その視線の鋭さに、さすがの大妖怪もたじろいだ。
「ちょっと、いいかしら……」
ゆらりと立ち上がりながら、千代女は機関銃のように早口で捲し立てはじめる。
「よく、ご想像なさい……夫の身体に抱きついて、その温もりを独占しようという娘の姿を。ええ、わかっていますとも。初代はやがて気になる殿方を見つけて家を去るのでしょう。それまで我慢すればいいだけの話なのでしょう。妾もそのこと自体は理解しています、どうでもよいのです。否、どうでもよくはないのですが、それはひとまず措いておきましょう。問題なのは夫婦の営み――いえ、妾ではなく夫の獣欲なのです。夫は常人を遙かに凌駕する性欲の持ち主……妾がお相手をして差し上げなければ、いつなにが――過ちが起こるともわかりません! ええ、そうでしょうね。もしかすると、あなたは娘が寝入ったのを見計らって場所を変えればいいではないかと仰るかもしれませんね。ですがそれは難しいことなのです。なにしろ初代は夫にべったりと抱きついて熟睡してしまう子なのですから。夫が身じろぎひとつでもすると、一瞬で目を覚ましてしまいます。場所を変えて夫婦の営みをすることなど、夢のまた夢なのです。わかりますか、この苦しみが…! 妾は一切、指一本、夫の温もりを味わうことができないのですっ! あっ、その、いえ……妾は別にいいのですけれども! 妾はただ、夫と娘の間に何か過ちが起こることだけが心配なだけで――」
『ナニが、か……ふむ』
「――お黙りなさいっ!」
肩で息をしながら叫ぶ母親を、初代は指を咥えながらぼーっと眺めている。
「ふーふのいとなみ? 母さまが父さまの? ねーねー、あやまちってなーに?」

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