【2021年3月5日】

吾輩は猫である第一章

はじまりにゃ
「吾輩は猫である!」
「ええ、見れば分かります……」
 窓から朝日が差しこむ室内で、ひとりと一匹は向かい合っていた。
 ひとりの方は男性であり、痛む頭を押さえながらも、冷静にツッコミを入れている。
 一匹の方は猫であり、銀色でややクセのついた毛並みと透き通るようなブルーの目を持った美猫だった。
 両者の吐息はお互いに酒臭く、そしてお互いに二日酔いだった。
「……先輩、猫っぽいなって思ってましたけど、本当に猫だったんですね……」
「……うむ。こんなふうにバレると思わなかった……お酒ってこわい……」
 事の発端は、昨夜にまで遡る。
 職場の憧れの先輩を、自宅でふたりきりの酒宴に誘う。そこまでなら健全なアプローチだった。うっかり飲みすぎて、酔い潰れてしまうところまで含めて。
 そうして日が昇り、目を覚ました後輩が見たものは、憧れの先輩と同じ毛色をした猫が酒瓶に抱きつくようにして、流暢な日本語で寝言をこぼすという珍妙な光景だった。
「……那月くん、説明させてもらっていいだろうか」
「あ、はい、どうぞ……」
 ひとりと一匹は、お互いに深酒から来る頭痛に耐えながら、座して向かい合う。
 それは端から見ればひどくおかしな状況だが、それにツッコミを入れる者はこの部屋にはいなかった。お互いにまだ、頭が回っていないのである。
「まず、見ての通り吾輩は猫である。有名な例のフレーズになってしまうが、本当にそうなのである」
「そうですね……猫、ですね……」
「うむ……正確には猫又というのであるが。これには諸事情があり……端的に言うと、ニンゲンの生活に興味があり、人のフリをしていた。温泉宿などというところで働いているのも、いろんなニンゲンが訪れるゆえ、観察対象に事欠かぬからだ」
「……で、昨日は僕といっしょに飲んで……」
「うむ、飲みすぎて変化が解けたまま寝た。いや、例の小説のように水瓶に落ちて死ななかっただけマシと言えるが……まあその……やらかした、な……」
 やらかしすぎだった。
「……あの、一応聞くんですけど、これ二日酔いで見てる夢、とかじゃないんですよね?」
「吾輩もできればそういうことにしてほしいのであるが……悪いんだが那月くん、ちょっと今からナシにできたりしない?」
「先輩が正直者なのは分かりました……よく今までバレませんでしたね……?」
「酒の席というのは昨日がはじめてだったからなあ……なあ那月くん、水もらっていいだろうか……二日酔いってめっちゃ頭いたい……知らなかった……」
「そうですね……お互い水でも飲んで、ちょっと落ち着きましょうか……」
 那月は頷くと、自分のコップと、小皿にも水を入れてテーブルへと置いた。
 猫の姿でありながら、よく知る先輩と同じ声色とテンションの相手は、猫らしくぴちゃぴちゃと水を舐め、一息を吐いて、
「ふにゃぁ……少し落ち着いた。まだズキズキするが……どうにかいつもの姿に戻れそうだ……んっ……!」
 銀色の猫が全身を震わせ、身体に変化が始まる。
 毛並みが逆立ち、明らかに物理法則を無視して小さな身体が盛り上がった。
 全身に生えていた銀色の毛並みは頭を残して消え、真っ白な人間の肌に変わっていく。
 肉球と爪を備えた前足は、たおやかな五指を揃えた人の手へ。後ろ足は、地を二足歩行に適した形に。
 細くしなやかな猫の肉体は、『細くしなやかな猫を思わせる』麗しき人の姿へ。ただ一点、胸部だけは随分と豊満な姿になった。
「……にゃあ」
 最後に、顔の形が見知ったものになったことで、後輩は目の前で起きていることが現実だと強く実感する。
 何度も顔を合わせ、恋をした相手でもある先輩が、確かにそこに現われたのだ。
「……ナツメ、先輩」
 ぼんやりと名前を呼ぶと、ナツメと呼ばれた『女性』は自らの変化を確かめるように自分の手のひらを眺め、満足そうに吐息して、
「うん、吾輩はナツメだとも。これでまるっと隠し事はない。……その、騙していて、すまなかったな」
「いや、それはいいんですが先輩、服! 服着てください!!」
「ん、ああ……」
 言われてからようやく、自分の状態に気付いたようで、ナツメは曖昧な返事をして、首を傾げた。
「……いや、待てよ。吾輩、いいことを考えてしまったぞ?」
「へ……?」
 二日酔いでの思いつきなど、大抵はろくなものではない。
 当然、この化け猫が考えたこともまともな案ではなかった。
「那月くん、キミはどうして吾輩を家に誘ったのだ?」
「……それは……その……」
「吾輩の知識が間違っていなければ、ニンゲンがそういうことをするのは、相手とつがいになって交尾したいときのはずだ」
「こっ……うび、い、いや、まあ、最終的には、そうかもしれませんけど、僕もいきなりそこまで求めてたわけじゃ……!?」
「む、那月くんはあれか、いきなり交尾しないニンゲンか……そうだな、そういうのもいるんだよな、ニンゲン……やはり興味深い……で、あれば、なおのこと、だ!」
「い、いやあの、先輩、まず服を……」
 目のやり場に困った後輩が目を逸らすが、まったく話を聞かない先輩は全裸のまま、満面の笑みで、爆弾を投下した。
「というわけで、吾輩は今日から、那月くんのつがいだ!」
「はぁ!?」
「言ったであろう、吾輩はニンゲンの生活に興味があると! そして正体を知られたのなら、逆にコソコソする必要はない! つまり、那月くんが吾輩にニンゲンのあれこれを教えてくれればいいのだ!」
「あ、え、これそういう話……?」
「それで、吾輩だけもらいっぱなしと言うのも悪いからな。見返りとして、吾輩は那月くんのつがいになろうかと。なんなら交尾もしようかと」
「んんん……!?」
 確かに彼が憧れの先輩を自宅に誘った意図は、『お酒の勢いで告白しよう』という、少しばかり後ろめたいものであったことは事実だ。
 自分でもうまくいくと思っていなかった案が、こんな形で叶ってしまうとは思わなかった。二日酔いの頭痛など、一瞬で吹き飛んでしまった。
「ま、待ってください! 確かにそういう意図があったことは否定できないっていうか、むしろそうなんですけど……だ、だからっていきなりそれは急すぎじゃ……!?」
「む、そうか? では、交尾したくなったらいつでも言うといい。可愛い後輩の頼みであれば、吾輩は拒まないからな」
「い、いつでもって……と、とにかく分かりました、先輩のことは誰にも言いませんし、人間のことも僕に教えられることなら教えます。だから、ええっと……」
「うむ、今後ともよろしくということだな! ……握手って、前足でよかったよな?」
 そうじゃない、と言いたかったものの、役得とも思う自分もどこかにいて。
 結局、後輩はやや遠慮がちに、憧れの先輩の手を握ることになった。

 棗那月は、山奥の温泉宿で働いている。
 家から近く、まかないがつき、子供の頃に何度か家族で泊まっているので雰囲気も知っている。
 そんな理由で応募した宿の従業員という仕事は、辺鄙な土地で慢性的な人手不足ということもあり、あっさりと採用となった。
 細やかな性格の那月は内装係という役割を与えられ、日々を過ごしている。主な業務は清掃や、アメニティの準備、季節物の飾り付けなどだ。
 二十四時間お客がいる宿という職場の性質上、夜勤も多いが楽しくはある。
 そして大浴場の清掃は、早朝に行う大事な業務のひとつである。
 デッキブラシを持ち、床の湯垢を擦り落としながら、彼は労働の汗を流していた。
「はぁ……」
 頑固な汚れを落とし、一息を吐く。
「おはよう後輩、今日も頑張ってるね」
「うわっ」
 唐突な声に慌てて振り向くと、そこには憧れの先輩がいた。
「ナツメ先輩……って、その姿……」
 今まで見たことのないパーツに、那月は目を白黒させる。
 デッキブラシを片手に仕事着の彼女から、猫耳と尻尾が生えていた。
「もう、那月くんの前ならあまり気負わなくていいだろう。今後ふたりきりのときはこれで行かせてもらおうかと」
 ぴこぴこと猫耳を動かして、ナツメは屈託なく笑う。
 ふりふりと揺れる尻尾を眺め、那月は改めて今朝の出来事を反芻し、
「……やっぱり、夢とかそういうのじゃなかったんだな……」
 髪と同じ銀色をした耳は見るからにふかふかで触ったら心地よさそうだし、身体の揺れに会わせて振れる尻尾もまた、可愛らしい。
 ややコスプレ感があるものの、ナツメのすらりとした麗しい肉体をたびたび猫のようだと思ったこともあり、似合っていると那月は思ってしまった。
「というか先輩、女湯の掃除は……?」
「うむ、もう終わったとも。それで、後輩を手伝いにね」
「相変わらず、仕事が早い……」
 ナツメは那月よりも数年ほど前にこの温泉宿で働いている。同じ内装係として、那月に仕事を教えた師匠のような存在だ。
 後輩の面倒見がよく、仕事のできる美人の先輩。田舎育ちの少年に、憧れるなというほうが難しかった。少し言葉遣いがおかしなところも、慣れてしまうとむしろいいと思えてしまうくらいに。
「……あれ。もしかして、先輩が僕の面倒見がいいのって……」
「む、気付いたか。そうとも、後輩なら仕事を教えるという名目で怪しまれずにニンゲン観察ができるからな」
「ああ……」
 やや悲しい目をした後輩だったが、ナツメはそれに気付くことなくデッキブラシで床を磨き始める。
 元々半分ほど終わっていた仕事は、先輩の手伝いが入ることでさらに早く片付くことになった。
「うむ、やはりふたりでやれば早いものだ」
「すみません、いつも手伝ってもらって……」
「気にすることはないさ。先達が後輩を助けるのは当然……これは、猫もニンゲンも同じだからな」
 うんうん、とナツメは上機嫌に何度も頷いた。
 猫は基本的には群れないが、同じ家に住む人間に獲ったネズミを差し入れたりすることもあるのだという話を、那月は思い出す。
「ナツメ先輩は、どうしてそんなにニンゲンのことを知りたいんですか?」
「ん~……まあ基本、面白いからであるな。吾輩ちょっと長く山で生きすぎて霊力持ってしまった系の猫又妖怪であるのだが、いろいろできるようになると、いろいろ興味も出てきてなあ」
「興味……ですか」
「まあ吾輩の話はいいではないか。今はむしろ、キミのことを教えてほしい。今日手伝いにきたのは、そのためでもあるからね」
「僕のこと……ですか?」
「うむ、ぜひに!」
 ナツメは那月の方に身を乗り出して、青色の目を輝かせる。
 遊び道具を見つけた子猫のような瞳にどきりとしつつも、那月は興味を持たれて悪い気はしなかった。
「えっと……聞いてくれればなんでも答えますけど」
「それはもう一から十まで、なにもかも知りたいな!」
「ええー……」
 それはむしろ、なにから言えばいいものか。
 迷ったものの、那月は頭を働かせて、言葉を紡ぐ。
「ええと、名前は棗那月。二十歳になったばかりで、家族は父と母、兄弟姉妹はいません」
「ふむ……人間は一度の出産でひとりしか子供を産まないのだったな」
「そうですね、双子とかじゃない限りは……あとは、えーと……あ、好きな食べ物は甘いもの、苦手なものは硬すぎる食べ物ですかね……スルメとかちょっと苦手です」
「ほうほうほう、そういえばチョコレートとか、よく食べていたね」
「あとはええと……鮭とかキノコとか好きです。きんぴらごぼうも」
「ほうほうほうほう……」
 好意では決してなく、ただの興味が籠もった瞳。
 それでも憧れの先輩に迫られているという事実が嬉しいのだから、恋心というのは厄介だった。
「……ふむ」
「っ!?」
 こちらを覗き込むように注がれてくる蒼い瞳に見惚れていると、ふいに手指が伸びてきた。
 那月が驚いている間にもナツメは彼の腕にぺたぺたと遠慮なく触れ、興味深そうに眺めて、
「おお、那月くん、意外と逞しいのだな」
「あ、は、はい、その、結構、力仕事も多いですし……最近は筋肉が増えてきました」
「ん~……じゃあ次は……ふんふんっ……」
「わわ、ちょっと先輩……!?」
「ふふ、洗剤のにおいだ」
「そりゃ、掃除してますし……!?」
 距離が近すぎる。
 そう思うけれど、逃げられない。
(というかこれは、どっちかっていうと人間じゃなくて僕個人の情報を集めているだけじゃ……!?)
 憧れの先輩に匂いを嗅がれるという行為に固まってしまう那月の混乱をよそに、ナツメはどこか楽しそうに鼻を鳴らす。
 首もとから胸、腹部と順番に嗅いでいき、
「ん、場所によって匂いが違う……まあこれは、猫も同じか……すんすん……」
 実際のところ、ナツメの行動に深い好意はなかった。
 面倒を見てきた後輩への愛着はあるが、それは猫がお気に入りのオモチャに対して持つ執着に近く、色恋にがるような意図は一切ない。
「……にゃあ」
 故に、『ソレ』が決定的な状態になるまでナツメは気がつかなかった。
 むっくりと大きさを増したソレが、ズボンを持ち上げ、存在を主張する。
「っ、す、すみません……」
「これは……」
「っ、あ、ちょ、せんぱい……」
 ぐにぐにと触り、後輩が切羽詰まった声をあげるまで、ナツメは目の前にあるものの正体が男性器だと気がつかなかった。
 猫のときにも交尾相手を得たことがない彼女にとって、はじめて間近に現われた男性器は――
「……面白いなぁ!」
「へ……!?」
 ――とてつもなく、面白いものに見えた。
「なんだい後輩、ニンゲンのおち×ぽはこんなにすごいことになるのかい!? うわー知らなかった、すごいすごい、もっと見せて!?」
「ええ、ちょ、まっ……!?」
 すっかり興味を持ってしまったナツメは、那月の制止も聞かず、きらきらと目を輝かせて後輩のズボンを下ろした。
「にゃんっ」
 肉竿が勢いよく弾き出され、ぺちんとを打つ。
 鈴口からはすでに先走りが溢れており、ナツメのが汚される。
「あはっ……元気じゃないか、後輩」
「す、すみません……」
「ん、謝らなくていいよ……むしろ……興味深くて、ん、すぅぅ……」
 怒るどころか機嫌よく鼻を鳴らして、猫又はペニスの香りを胸いっぱいに吸い込む。
 つんとした刺激のある匂いは独特のクセがあり、だからこそナツメの興味を刺激する。
「っ、うぁ……」
「ねえ、那月くん。交尾はダメでも、これくらいならいいかな? それとも、これもダメかい? 吾輩、これにもとっても興味が出てきてしまったのだが」
 つぅ、と性器に指を這わされて、それだけで薔薇色の感覚が那月の脳を焼く。
 ダメだと言うべきだと分かっているのに、口からはこぼれるのは吐息だけだった。
 はっきりと拒否されないことを肯定と取ったのか、ナツメは楽しそうにペニスのあちこちに触れていく。
「あっ、あぁぁぁ……」
 興味があるという言葉の通り、ナツメはペニスの知識を得るためにじっくりと、確かめるようにして撫でた。
 男性器の反応だけでなく、那月の表情と吐息まで観察し、より気持ちのいい場所を、強さを知るべく、甘ったるく、ねちっこく、丹念な指使いで肉竿を愛撫する。
「ん、ぴくぴくしてるね」
「う、ふぐ……せ、先輩、待っ……うあっ!?」
「あ、根元より先っちょの方が、感じるのかな……びくんってしたよ、可愛い……ふふ、かりかりかりぃ~……♪」
 鈴口に軽く爪を立てられ、鋭い感触が那月の言葉を遮った。
 思わず腰を引いてしまった那月だったが、猫はそれを許さず、獲物を追い詰めるかのように指を亀頭に絡みつかせた。
「うあああっ……」
 カウパーを潤滑剤にして両手で包み込むように、ぐにぐにとペニスの先が揉まれる。刺激が強く、出口のない快楽が那月の腰を震わせた。
「ほら、ここ? それとも、こう? こうやってゴシゴシするのがいいのかな、それとも、捻るみたいにぐりぐりした方が気持ちいいかな?」
「く、うううぅ……!?」
「ん、余裕がないかな? では、吾輩の方で勝手に解釈しよう」
 唐突に始まり、一秒ごとにこちらの弱点を把握して精度を上げてくる手コキに、那月はすっかり骨抜きにされてしまう。
「あ、ここも反応がいいなぁ、ふふ……」
 膝から崩れ落ちそうになるほど余裕のなくなった那月の顔を見上げて、ナツメはひどく楽しそうに微笑む。
 自分の手の中でびくびく跳ねる肉の塊と、今まで聞いたことがない蕩けた声を出す後輩に、猫又はすっかり夢中になっていた。
「ん、ぐちゅぐちゅって、すごい音がしてる……ニンゲンの雄はこうされると、交尾でもないのにこんなに悦んでしまうんだね?」
「っ、あ、先輩ぃ……」
 無自覚になじるような言葉が耳朶に響き、羞恥心が煽られる。
 那月から快楽の声が引きずり出されるたび、ナツメは知識を吸収し、手淫は熟達していく。
 そして知識を得た手コキによって、また嬌声が引き出される。
 甘く蕩けるような、悪魔のような快感の無限ループ。デッキブラシを杖にするようにして、那月は息も絶え絶えに悶えた。
「ん、びくびくが強くなってきた……すごいな後輩、吾輩の手を弾き返してしまいそうだ……こら、逃げちゃダメじゃないか、生意気だぞ……♪」
「せ、先輩ぃ、も、もう、離してっ……」
「ん~、どうして? ほら、ちゃんと言わないともっといじめてしまうぞ?」
「も、でちゃう、からぁ……!?」
「え、本当に!?」
「あぐぅ!?」
 握られる力が強くなり、那月は呻いた。
 ナツメは目をきらきらと輝かせ、離れるどころか顔を寄せてくる。
「すごい、もう射精しちゃうんだね!? ほら、早く見せて、ニンゲンの赤ちゃんの素
が出るところ、吾輩に見せて!?」
「う、あ、あぐううぅっ!?」
「にゃぁん……!?」
 我慢するなど考えられないほどに強く責め立てられ、童貞の青年はあっけなく果てた。
「あ、すご、びゅうぅぅって、出しちゃってる……♪」
 熱の塊が吐き出され、それはナツメの指の隙間を通り、顔へと降りかかった。
 べったりと白濁液に耳まで汚された猫又は、すんすんと鼻を鳴らして、
「ん、にゃあ……すごい匂いだな、これは……」
「は、はあ、は……先輩、すみません……顔に……」
「ふふ、気にしなくていいよ。こんなに射精するなんて、そんなに吾輩を孕ませたかったのかな?」
「はら……う、うぅ……」
 恥ずかしさと申し訳なさから目を逸らす那月を楽しそうに見上げて、ナツメは顔についた精液を丁寧に指ですくう。
「ん、すごい匂い……それに、べとべと……こんなの、おま×この中に出したら、お腹が溺れちゃいそうだな……ん、こくっ……」
「っ、ちょ、先輩、なにしてるんですか!?」
「ん、味も見ておこうかなって……あは、いがいがして、すっごく喉に絡んでくる……でも、ちょっとクセに……にゃぁ!?」
 ぐい、と予想外の力で手を引っ張られ、ナツメは目を白黒させた。
 驚いている間に、那月はナツメをシャワーの前まで連れていき、温水で手についた白濁液を流す。
「あ、もったいない……」
「もったいなくないです、汚いからちゃんと流してください……はぁ……」
「う、うむ」
 息を切らしながらもはっきりと拒否を口にされ、ナツメは素直に黙った。
(別に、後輩のなら気にならないんだが……)
 こちらの手首をんでくる後輩の力が、思った以上に強い。
 意外な力強さがどうしてか心地よく、振りほどけなくはないのに、猫又はなんとなくされるがままになってしまっていた。
「……ふふ」
 無意識でこぼれた笑みは、決して悪いものではなかった。
第一話にゃ
1 猫又は知りたい
 万定ナツメは猫又である。
 かつては野良猫であり、山で長く生活するにつれて徐々に霊力を得た。
 同じように山に棲む猫たちが命をぎ、終えていく中で、自分は猫又とした覚醒したことを、ナツメは興味深く考えていた。
「なぜ、吾輩だけがこうなったのだろうか?」
 霊力を持ち、寿命を外れ、高い知性を得た。
 なぜ、なぜ、なぜ。
 無数の疑問は、あるひとつの指向性を帯びる。
 知りたい、知りたい、知りたい。
 およそ猫の寿命と肉体、そして知能では不可能であった、物事を理解するという刺激に、ナツメは執着した。
 そうして今の彼女の興味は、ニンゲンに強く向いていた。
 猫であった頃は追い回されることもあり、しかし施してくれる者もいた、ニンゲンという生き物。
 あの生き物のことを知りたい。理解したい。それが今、彼女が『万定ナツメ』としての姿を取る理由である。
「……にゃあ」
 まだ、日が昇らない時間帯。
 とある廃屋で、一匹の野良猫がむっくりと起き上がった。
 現代の田舎の山では、人のいない家など珍しくない。そのうちのいくつかを、猫は気分次第で転々としていた。
 野良猫は自らの手をじっくりと眺め、はぁ、と人間くさいため息をこぼし、
「では、準備をしようか」
 呟いた瞬間には、もう姿は変わり始めている。
 人を模し、人に紛れ、人と暮らすために身につけた変化の力。
 ヒビの入ったガラスに姿を映して、変化忘れがないことを確認すると、ナツメは仕事着に袖を通す。
「この生活も随分慣れたものであるなぁ」
 ニンゲンの暮らしに興味を持った猫又であるナツメが、変化を身につけて数年が経過していた。暮らしにはすっかり慣れ、人の社会に溶け込むのが当たり前となっている。
「……まあ、こういう風に失敗するときもあるのであるが」
 うっかり前と後ろを反対に着ていることに気付き、ナツメは笑う。
 そんな失敗も含め、楽しいと思う。猫又は享楽的で、好奇心で死んでも構わないとすら思っていた。
「うん、今日も出来がいいな。さすが吾輩である」
 改めて身だしなみを整え、ナツメは満足の吐息。
 銀色の髪と蒼い瞳は田舎では目立つが、元の毛並みと違う色の髪に変化するのは非常に手間な上、物珍しげに見てくるニンゲンを逆に観察することもできるので、ナツメはあえてそのままにしていた。
「……それにしても、意外なことだったな」
 自らの手首を眺めて、ナツメは呟いた。
 彼女が視線を送る部分は昨日、後輩である那月に捕まれた部分だ。
 どこか気弱な印象のある彼が、予想外の力で自分を押し返したことに、ナツメはまだ驚いていた。
「子供だと、思っていたのだが……」
 ナツメにとって、那月の存在は猫で言うところの愛玩具や子猫に近く、庇護する対象でもあった。仕事を教えるのも、母猫が子猫に狩りを教えるようなものだと考え、丁寧に教えていた。
 そんな庇護するべき相手が、自分の予想以上の力で返してきたのだ。
「……なんだろう、少し、ちくりとしたな」
 猫の世界に生きてきたナツメにとって、感情とは物珍しいものだった。
 テリトリーに入るものは遠ざけるか自分が離れ、食いたければ食い、眠りたければ眠り、渇けば水を飲む。
 よく言えば野性的、悪く言えばシンプルな生活を営んでいた彼女にとって、ニンゲン社会の複雑さと、そこから来る『感情の機微』というものは、まだまだ未知のもであった。その社会に浸り、影響を受けつつある自分の心も含めて、だ。
「……もう少しだけ、触っていたかった……いや、これは触られていたかった……のか……? それに、あの、味……」
 ごくん、と自然と喉が鳴ってしまう。
「美味しくはなかった、はず、なのに……ん……」
 あの白濁の味を思い出すと自然と身体が震え、熱くなる。
 ナツメは戸惑いながらも、軽く首を振って、
「……そのうち、答えも出るだろう」
 迷いはあれども、それすらも楽しいと思って、猫又は笑みを浮かべた。
 時計のない部屋で、空の明るさだけで大まかな時刻を判断すると、彼女は軽く伸びをする。出勤の時間が近いのだ。
「では、お師匠様。行って参ります」
 手入れの届いてない部屋の隅に置かれた、やや埃の積もったタオルケットに声をかけると、布がもぞもぞと動いた。
「……うむ、行ってくるがよい」
 タオルケットの中身から聞こえてきた声は、古く、重い響きがあった。それでいて、寝起きの緩い吐息もあり、
「まだまだお前は隙が多い。正体がバレないように、厳重に気を使うように」
「…………」
「特にお前、アレじゃぞ。ニンゲンに興味持つのはいいが、踏み込みすぎて怪しまれたり、そういうのは特に気をつけるんじゃぞ」
「…………」
「なんじゃ、さっきから黙りこくって。普段は聞いてるのか聞いていないのか分からないような態度でへいへい言うくせに」
「……お師匠様。先に謝っておいてもいいだろうか?」
「話せ、今すぐ。それから土下座しろ」
 数秒後。事情を聞いた『お師匠様』の怒声が、廃屋にこだました。

2 人と妖怪の線引き
「というわけでな、後輩。吾輩、お師匠様にガチ説教を食らった」
 仕事の休憩時間中に声をかけられて、那月は首を傾げた。
「お師匠様、ですか?」
「お陰で遅刻ギリギリになってしまった……すまないな、今日はあまり手伝えなくて」
「あ、いえ、それは全然……むしろ先輩の方は大丈夫ですか?」
「うむ、せいぜい朝のお説教の声がまだ耳の奥に残っているくらいだとも。お師匠様は吾輩にニンゲン社会に溶け込む方法を授けてくれた恩のある御仁なのだが、年寄りなので話が長い上に怒ると声が大きくてなぁ……」
「その、お師匠様っていうのも、妖怪なんですか?」
「うむ。後輩は聞いたことがないか、阿波の金長狸や、屋島の太三郎狸、松山の隠神刑部……いわゆる、狸伝承とかそういうやつなのだが」
「ああ……」
 地元育ちの那月にとって、それは聞き覚えが多々ある話だった。祖父や祖母が語って聞かせてくれた、旧い伝承としての狸妖怪。
 特産品にも狸をイメージした商品が多く、山でもよく見かける。狸はそれくらい、那月の地元では身近な存在だった。
「そういうわけで、この辺りは狸系妖怪が強い土地でな。この温泉宿がある山のボスも、狸妖怪であるお師匠様が仕切っているというわけだ 
「そのお師匠様に、どうして怒られることになったんですか?」
「うむ、ちょっと那月くんに正体がバレして、つがいになる代わりに観察させてもらうことを話したら怒られた」
「やっぱりマズかったんじゃないですか!?」
「吾輩的には名案だと思ったんだけどなあ……で、お師匠様が様子を見に来ると言って、今はキミの頭の上に乗ってる」
「へ……うわっ!?」
 言われて頭に手を伸ばすと、もふっとした感触があった。
 驚きの声をあげた那月の頭から、深い茶色をした毛玉が転がり落ち、着地する。
 毛玉はすぐさま起き上がり、つぶらな瞳で那月を見上げてきた。
「……た、たぬき?」
「うむ、吾輩のお師匠様。名を銀二郎という」
「た、ただの狸にしか見えないんですが……」
「たわけめ、儂がそこの未熟者のように人の姿を取る必要があるか」
「うわ、やっぱり喋るんだ……!?」
 目を白黒させた那月を見上げ、狸は流暢な日本語を操った。
 すでに猫がよく知る相手の声で喋る姿を目撃している那月だったが、やはり目の前で起きている現象がやや信じられない。
 そんな那月の戸惑いなどお構いなしに、狸はそのままナツメの方に視線を向け、
「ナツメ。お前、何度も言ったじゃろうが。気をつけろと」
「ははは、面目ない。お酒は怖いと思い知りましたぞ。次から気をつけます」
「手遅れになってから気をつけても遅いじゃろが!!」
 ふぐるるるる、と威嚇の声をあげて、狸がナツメを叱る。
「ったく……ニンゲンにバレたなど、一番致命的なことを……」
「ご心配なく、お師匠様。そこにいる那月くんは吾輩に惚れているらしいので、黙っていてくれるでしょう」
「……なあ、おぬし、この脳天気バカ猫のどこがええんじゃ、乳か?」
「ええっと……まあその、いろいろ……っていうか本人を前に言えるわけないじゃないですか!?」
「なんじゃ、乳か……雄だのう」
「乳以外もいろいろです!?」
 うっかり胸の方を見てしまって性癖が看過されてしまったが、さすがにそれだけだといろいろ誤解を生みそうなので那月は慌てて首を振る。
 銀二郎は、やたらと人間臭い調子でため息を吐いて、
「まあ、呪印は結んだ。すでにおぬしはナツメの正体を他人に口外できぬ」
「あ、さっき頭の上に乗っていた間に……?」
 那月はまったく気がつかなかったが、どうやらなにかしらの保険をかけられているらしい。
「なに、言わねばなにも問題はない。言おうとしても、意識を失う程度で済む」
「……お師匠様。なにも、そこまでしなくてもいいのでは?」
「山で起きる問題は儂が収めなければならぬ。そうでなくては、他の妖怪どもも納得せん。お前がうっかり人里に降りようとしたとき同様にの」
 用事は終わったとばかりに、銀二郎はふたりに背を向ける。
 別れの挨拶もなく距離を取り始めた狸を、那月は引き留めた。
「あ、ちょっと……」
「忘れるな、那月とやら。ニンゲンと我らは違う。生きるルールが違い、それでも同じ山で生きている。故に、我らは棲み分けをしている。それでも、と言うのなら……相応の積み重ねが必要になる。ぬしにも、そこの脳天気な娘っ子にもな」
 今度こそ、狸はふたりの前から消えた。それも煙のようにするりと、瞬きの時間すら必要とせずに。
「驚かせてすまないな、那月くん。あれが吾輩のお師匠様。昔、まだ右も左も分からない猫又になりたての頃、好奇心に任せて全裸で人里に降りようとした吾輩にガチ説教をして、道を示してくれた御仁だ」
「あ、それはかなり怒られますね……」
 過去に起きた事件がなんとなく想像ができてしまい、那月は微妙な顔で頷いた。
「にゃあ……まあ、今回のは吾輩が悪いな。那月くんが呪われるようなことになってしまったことは、すまないと思っている」
「いやまあ、呪いっていってもそんな危ないものじゃないみたいですし」
 話を聞く限り、ナツメの正体を誰かに話そうとすると意識を失うという呪いで、命に関わるようなものではない。
 わざわざ警告の言葉を置いていったことも含めて、ナツメの『お師匠様』が優しさから動いていることを、那月はすでに理解していた。
「それに、あの人……ええと、銀二郎さんは、僕と先輩に離れろとは言いませんでしたし、ナツメ先輩がしたいことも、認めてくれてるように思います」
「うむ、お師匠様は厳しいが、優しい御仁でもあるからな。……ところで那月くん、ひとつ頼みがあるんだが」
「あ、はい。なんですか?」
「改めて、キミのお宅にお邪魔してもいいだろうか」
「え……」
 言葉の意味を理解した那月の心臓が跳ねた。
(……落ち着け)
 舞い上がりかけた自分の心を、那月は落ち着かせる。
「……ええと、人間の家を観察したいとか、そういう感じですか?」
「ん、いやまあ、それもあるのだが……なんというかな。改めて飲み直したいというか……ほら、この間はお互いにすっかり酔っ払って寝てしまったであろう?」
「う……そうですね……」
 ナツメの正体が露呈する原因になった、那月の自宅での飲み会。
 お互いにはじめての飲酒で、ナツメは興味津々、那月は舞い上がっていた。
 そうしてお互いに己の限界を理解できず、いつの間にか酔い潰れたのだ。
「この間は、正直失敗したと思っているが、後輩といっしょにお酒を飲むという行為は……なんだな、高揚というか、うっかり歯止めを忘れてしまうくらいには楽しかったのだ」
「……先輩」
「うん、だから、改めて楽しさを知りたいというか……何度か繰り返して、新しい発見があるのもまた、楽しいものだろう?」
「…………」
 屈託なく笑う先輩を見て、那月は自分の心臓の鼓動が強くなるのを自覚する。
(ああ、この人は本当に、楽しもうとしてるんだ)
 正直なところ、今日までの那月は戸惑いや、理不尽な気持ちが強かった。
 自分の恋心を無意識に弄ばれているような、どこか悔しい思いが、彼の中にはあったのだ。
(この人は……一緒に楽しもうとも、してくれてる)
 相手の顔を見れば、嫌味がないことは分かる。
 つがいになる、交尾もするという言葉も、こちらを弄んでいるわけではなく、軽い気持ちでもなく、ただそれが『相手が望むから叶えたい』という、純粋な気持ちから来ているのだと、那月は理解した。
 自分が望みを我慢しないように、相手も望みを我慢しなくていいという、我が儘の肯定。
 それは猫の自由さで、けれど人と同じように分かち合おうとする姿勢でもあった。
「……分かりました、先輩。じゃあ、えっと……今日、とか。どうですか?」
「お、あれだね、善は急げというやつだね!」
 無邪気に笑う先輩の姿を見て、那月は改めて自分の恋心を自覚した。

3 猫のいる部屋
「お邪魔します!」
「はい、どうぞ」
 元気よく入室するナツメを、那月は快く迎え入れた。
 彼が住むアパートの間取りは1DK。田舎の山中なので家賃は駐車場込みでも非常に安い。部屋もすべて埋まっておらず、のびのびと暮らしている。
「うん、やっぱり綺麗なお部屋だね」
「ひとり暮らしを始めた頃は結構汚かったんですけど、いつの間にか掃除が得意になっちゃって……先輩のお陰で」
「ふふ、褒めてもなんにもでないぞう」
 その笑顔で充分です、という言葉が浮かんだが、気恥ずかしかったので那月は飲み込んだ。
 正体を知られ、もはや隠す必要がなくなったナツメは、部屋に入るなり猫の耳と尻尾を生やす。
「耳と尻尾を戻すだけで、だいぶ違うものなんですか?」
「猫にとって大事な部分だからなあ。特に尻尾を消すとバランス感覚がおかしくなるから、吾輩がニンゲンの姿でちゃんと歩けるようになるには、かなりの修練を必要としたぞ」
 言いながら、ナツメは興味深そうにあちこちを見て回る。
 すでに見られて恥ずかしいものはすべて押し入れの中なので、那月は慌てない。
 それほど裕福というわけでもなく、それほど困窮しているわけでもない、一般的なひとり暮らしの部屋。パソコンだけは、ゲーム用の少しスペックがいいものを置いている。
「すごい……ニンゲンが生活している空間! 吾輩、野良出身なのでじっくり見られるのは非常に興味深い! この機械とか、なぜこんなにキラキラしているのだ!?」
「ゲーミングってつくと光るんですよ、なぜか……」
 特に意味もなく光るマウスに興味津々なナツメを微笑ましく思いながら、那月は飲み会の準備を始める。
 小さなテーブルがいっぱいになるくらいに並んだ料理は唐揚げや生姜焼きなど、男のひとり暮らしらしく味の濃いものが多いラインナップだが、酒には合う。
 肉系の料理が多めなのは、先輩が猫ということも考慮した上でだ。
 今回は飲みすぎを避けるために、事前に水も用意している。
「おお……すごいな、これぜんぶ那月くんが今日作ったのかい!?」
「ええ、まあ……ひとり暮らしも長いので。時間あるときに下ごしらえしておいて、いつでも簡単に作れるようにしてあるんです」
「内装係から厨房係に転職もできそうだね……あ、でもそれ吾輩ちょっと寂しいなぁ……」
「あはは、さすがに本職の人たちには勝てませんし、内装係も気に入ってますから」
「うむ、そうかそうか。そして先輩としては恥ずかしいことであるが、吾輩は元々猫なので料理は苦手でなあ……でもお金はあるから、お酒はいろいろ買ってきたぞ」
「……今回は飲みすぎないようにしましょうね」
 手提げ袋いっぱいに入った酒を見て苦笑しながら、那月はグラスを用意する。
 適当な瓶の中身を注げば、アルコールの香りがふわりと立ち上がり、アパートの古い匂いを上書きするように広がった。
 雰囲気に呑まれないように気をつけながら、ふたりはグラスを軽くぶつける。
「では、乾杯だ!」
「はい、乾杯ですね」
 お互いに慎重に、舐めるように酒を舌で転がすと、独特の香りと熱が口の中を満たす。
 刺激に誘われるように唐揚げにかぶりつけば、甘く、じゅわりとした肉汁と油が、酒の香りを柔らかく持ち上げた。
「……美味しいね、これ」
「ありがとうございます」
「にゃあ……料理というのは、ニンゲンのやることの中でかなり興味深い部分だ。吾輩たち、基本食べ物は生で行くからな」
「逆に人間は生で食べたらお腹壊したりするんですけどね」
「あと、虫を食べるのすごく嫌がるじゃないか。結構美味しいんだが、アレ」
「それはビジュアル的な問題が……」
「……見た目の話なら、魚とかも結構すごくないか?」
「それはそうなんですけどねー……」
 人類側の忌避感をどう説明したものかと悩んでいるうちに、猫又は一通りの料理に手をつけていく。
 一口食べては少女のように目を輝かせるナツメを見て、那月は作りがいを感じた。
 飲酒よりも食事メインの、ゆったりとした飲み会。途中で水を挟み、ほどよく酔いが回る感覚を楽しみながら、那月とナツメは料理の皿を空けていく。
「先輩って、猫又なんですよね。戸籍とかどうしたんですか?」
「そういうニンゲンのルール的に必要なのものは、大体お師匠様が用意してくれてなあ……あの温泉宿で働いているのも、お師匠様が手を回してくれたお陰なのだ」
「……やっぱり優しい人、というか狸なんですね」
「うむ。吾輩、お師匠様のことを日に五回くらいは小うるさい古狸だと思うが、常に尊敬と感謝はしているぞ。それに意外と涙もろくてなあ、初任給でお師匠様の好きな酒買ってプレゼントしたら酒瓶抱えておいおい泣かれた」
「酒瓶抱えておいおい泣く狸……」
 想像して、少し吹き出してしまった。
 他愛のない話は弾み、食は進む。酒をほどほどに楽しみ、先輩と後輩の間には落ち着いた空気が流れる。
「じゃあ先輩は、今は銀二郎さんと暮らしているんですね」
「んむ? いや、どうなんだろうな、暮らしたり暮らさなかったりというか……吾輩、気分次第であちこち転々としているからなあ……」
「転々……あの、先輩、そんなに家をたくさん持ってるんですか?」
「いや、持ってないぞ。あちこちの廃屋を勝手に寝床にさせてもらっている」
「大問題じゃないですか!?」
 一瞬で酔いが覚めた。
「え、ちょ……い、今までずっとですか!?」
「うむ、今までずっと」
「お風呂とかどうしてたんです!?」
「猫の姿に戻って毛繕いであるなあ、水に浸かるのは苦手だ」
「そ、それはさすがにマズいんじゃ……」
「まあ、確かに褒められたものではないな……ニンゲンのルールだとダメらしいし」
「いやそういうことじゃ……そういうことでもあるんですけど!」
 那月が危惧しているのは、もっと別の問題だった。
 ナツメのような美人が、廃屋に忍び込んで雨風をしのいでいる。
(心配するに決まってるでしょうが……!)
 ましてそれが自分の好きな相手なのだから、気が気ではなくなるのも当然だった。
「先輩、ええと、その……」
「う、うむ、なんだ?」
 ナツメの方も、那月の様子がおかしくなったことで違和感を得ていた。
 自分の言動が原因であることは分かるが、なぜ、相手がそこまで真剣な顔をするかが分からない。
 不理解のままで、ナツメは那月に手を握られる。
「あ、手……」
「う、うちで暮らしませんか!」
「にゃ!?」
「だって心配ですし、うちにいれば人間の生活をより近くで見られますし、ええと……な、なにもしませんから……!」
 自分でもとんでもないことを言っていると分かりつつ、那月はまくしたてた。
 酒の勢いも込みではあったが、やや強引にでも、ナツメに廃屋で寝泊まりするという行為をやめさせたかったのだ。
「……なにも、しない……む、ぅ……」
 一方で猫又の方は、申し出をありがたいと思いつつも、胸の中がもやもやしていた。
 なにもしない、という言葉が後輩の優しさから来ていると分かっているのに、なんだかそれが寂しく思えてしまう自分がいる。
 握られた手から伝わる体温がやけに熱く感じられて、なぜか鼓動が乱れてしまう。
 一般的に、それは相手を異性として意識したが故に起きるものなのだが、色恋を理解していない猫又は気付かない。ただ、なんとなく痛みのようなものを感じてしまうだけで。
「……後輩が、それでいいなら、吾輩としては願ってもないことであるが」
「決まりですね!」
 こうして、やや強引にふたりの同棲が決定したのだった。

4 師匠と弟子
「……ということがありまして」
「意外と男気があるな、あの少年」
 一夜明け、事情を説明された銀二郎の感想は、ナツメの予想より好意的だった。
「怒らないのですね、お師匠様」
「言ったであろう、すでに呪いは結んであると。あの少年が儂らの領分を犯さなければ、儂は今以上の手出しはせん」
「……吾輩は?」
「なんだ、つまらんことをしたら尻尾がちぎれる呪法でもかけてやろうか?」
 確かめるまでもなく痛いので、ナツメはぶるぶると首を振った。
 弟子の様子を見て、狸は随分と人間臭い仕草で大きくため息を吐いて、
「……お前は世間知らずのバカで、その上で好奇心旺盛のアホなので始末に負えないが、だからこそ、ああいうニンゲンに救われるならそれがいいだろうさ」
「救われ……? 吾輩、救われるような境遇ではないと思うのですが。野良ですが、納得はしておりますし、暮らしを苦しいと思ったこともないですぞ」
「……そういうことではないのだがな」
 師匠が少しだけ目を細めたときは、なにかを思い出しているときだと、猫又は知っていた。
 そして、なにを思い出しているのかは聞いても答えてはくれないことも、知っている。
 疑問はあるものの、ナツメはそれ以上を聞くことはしなかった。ただ、別に聞きたいことがあったため、彼女は口を開く。
「……お師匠様、少し質問があるのですが」
「なんだ、言うてみろ」
「吾輩は……ニンゲンの家に住むのははじめてで。楽しもうとは思うのですが、同じように、彼にも楽しんでほしいというか……少なくとも、あまり迷惑をかけたくはないと思うのです」
「……で?」
「端的に言うと、どうすれば彼が喜ぶと思われますか? 吾輩ちょっと、野良長くてそういうの超疎い」
「狸に人間関係の相談するかー……」
 やれやれと首を振りつつも、銀二郎はどこか楽しそうだ。
 面倒を嫌うくせに、頼られるのは嫌いではない。そんな師匠の性分を、弟子はよく理解していた。
「まず前提だが、お前は今、ろくなことができん。せいぜい、あの宿で鍛えた掃除くらいのものだろう」
「……つまり家の掃除を?」
「阿呆。思春期の男子の持ち物を勝手に掃除するな、向こうが恥ずかしがる」
「では吾輩、本格的になにもできないのですが」
「……お前はあの男子に惚れられとろうが」
「つまり交尾ですか!?」
「あいつ本当に苦労しそうだなぁ!?」
「吾輩もそれは望むところなのですが、後輩はちょっと奥手というか、いきなり交尾しないニンゲンらしくて! でもちん×んは触らせてくれました!」
「……本当に苦労するなあ、あいつ」
 狸が真顔になったが、猫又の方は呆れられていることに気付いていなかった。
「……いきなりそこまでしろとは言っておらん、あの男子が望んでおらんならなおのことだろう。まあ、スキンシップのひとつでもしてやれ」
「ふむ……分かりました、お師匠様。最終的には交尾ですね」
「まあー、最終的にはなあー……でもその直接的な言い方は男子としては逆に萎えるやつだなあー……まあ、それは向こうが乗り気なら、いずれそうすればよかろう」
 その辺りの機微をまだ理解できない弟子のことを諭すべきかと師匠は迷ったが、最終的には那月に丸投げしようという方針になった。
 野良猫というシンプルな生き方をしてきたナツメに、色恋の奥深さを教えるのは骨が折れると感じたのだ。
「……まあ、お前の意欲は評価できる。なにか困ったことがあれば、また儂のところに来るがいい。だが、なるべく困るなよ、面倒だからな」
「はい、お師匠様」
「それと特に用がなくてもたまには顔を出せ、腹を出して寝るなよ、ニンゲンと暮らしているからといって油断してご近所さんにまで正体を晒すなよ、それから……」
「はいはい、お師匠様」
 うるさい小言を聞く機会も減ると思えば、少しだけ楽しくなってくる。
 銀二郎の言葉を聞きながら、ナツメはしばし彼の背中を撫でた。
「では、お師匠様。そろそろ」
「うむ、達者でな。……荷物はそれだけでいいのか?」
「元々吾輩、私物はこれしか持っておりませんので」
 そう言って、ナツメはその場でくるりと回ってみせる。
 普段の仕事で使っている旅館の制服。それだけが、彼女の荷物だった。
「……アレも持っていくか?」
「お師匠様が、裸はよせと言って渡してくれたあの服ですか。ですがアレは、お師匠様にとって大事なものでしょう」
「……お前鈍感なのに、そういう気の使い方は覚えたな」
「鈍感な吾輩でも見て分かるほど、大事にしていらしたので」
 ばつが悪そうに目を逸らした銀二郎の様子に少しだけ笑って、ナツメは頭を下げる。
「それでは、お師匠様。お世話になりました」
「おう」
 会おうと思えばいつでも会えるので、別れの挨拶は簡単なものだった。
 背を向けた猫又は、師匠の方を振り返ることなく、山を降りていく。
「スキンシップ……なるほどにゃあ……」
 ポジティブなナツメの思考は、すでにこれから先のことに向いていた。
 猫又の足取りは軽く、整備されていない獣路を難なく通っていく。
「お待たせ、那月くん」
「あ、おかえりなさい、ナツメ先輩……って、荷物ないんですか?」
「うむ、吾輩、ほとんどものを持ってないからな。この服だけだ」
「仕事の連絡とか、どうしてたんですか……」
「その辺りはお師匠様がやってくれててなあ……」
「じゃあ、これからは僕が担当ですね」
 スマホを持たせた方がいいだろうか、そんなことを思いながら、那月はナツメの背後の山に深く頭を下げる。
「……那月くん、どうした?」
「いえ、銀二郎さんなら見ているかなって」
「ふむ……あり得るな」
 丁寧で素直な那月の態度を好意的に思いながら、ナツメも倣うようにお辞儀をする。
 頭を上げたふたりは、肩を並べて歩き出した。
「じゃあ、これからよろしくお願いします」
「うむ、これからよろしくだ、那月くん」
 山から吹く風がを撫でるのを心地よく思いながら、ふたりは帰路についた。

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