プロローグ 母からの手紙
「……暗くなってきたなぁ」
木々の隙間から差し込んでくる光は、日の傾きとともに徐々に薄くなってきていた。
夕暮れと夜の間に迷うように歩きながら独り言をこぼすのは、線が細く、年若い男性だった。
山深い土地の足場はろくな整備もされておらず、もはや道があったことすら曖昧だ。
悪路とも獣道とも言えないような道を、彼は足元に注意しながらゆっくりと進んでいく。
「本当にこっちでいいのかな……お母さん、こんなところに呼び出して、どうしたんだろう……」
彼の母親には、昔から放浪癖があった。
何度も行方が分からなくなってはひょっこりと帰ってくるということを繰り返している、世間一般から見れば悪い母親。だが、彼にとっては幼い頃からそれが当たり前で、もう慣れたことだった。
彼は足を止めることなく、懐から封筒を取り出すと、その中にある一枚の紙を広げる。
紙に書かれているのは手書きの文字であり、丸い癖のある言葉が綴られていた。
愛する息子へ
はぁい、お母さんだよ。元気にしてる?
お母さんは相変わらず元気です。今いるところはちょっと秘境だけど、景色はいいよ!
生活費はいつも通りに振り込んであるから安心してね!
ところで、今日は貴方に少しだけお願いがあります。どうするか迷ったのだけど、きっと必要なことだと思うから。
この手紙を読んだら、同封する地図の場所まで来てください。家からはちょっと遠いけど、貴方にしかできないことなの。
どうかお願いね。きっと、本と銀色が、導いてくれるわ。
放浪癖があるわりに妙なところで几帳面な母親は、何度も旅先から手紙を送ってきてくれていた。
いつもは近況報告程度しか書かれていな母からの手紙。それが今回はある場所に来るようにと書かれていた。
それはいつもならひとりでどこかへ行って、いつの間にか帰ってきている母からの、はじめての頼み事だった。
「本と銀色が導いてくれる、ね……どういうことなんだろう」
不思議に思いつつも彼は母親の頼みを素直に受け取り、単身でその場所へと向かうことにした。
「随分と遠いところに来ちゃったなぁ……」
自宅のある東京から何度も電車を乗り継いで、家からは遠く離れてしまった。
田舎にはよくある無人の駅を降りて、ここに来るまではかなりの距離を歩いている。地図に記されている場所は、どう見ても山奥だったのだ。
道中ですれ違った現地の人に聞いたところ、彼の目指している場所は昔、とある貴族が所有していた山で、今は誰が管理しているかも分からないのだという。
疲労感は気力を緩やかに削いでいくが、引き返すわけにもいかない状況だ。今から戻っても、下山までに夜が来てしまうだろう。
「それなら、目的地に着くほうがいいよね……」
母親の真意は分からないが、後のことは到着してから考えればいい。
そう結論して、彼は疲労の溜まってきた身体を引きずるようにして歩き続ける。
日が完全に落ちて少し経った頃に、草と木の隙間を抜け、視界が開けた。
「……月が、明るいなぁ」
都会と違って空は遠く、浮かぶ月は巨大だ。
満月の光が優しく降り注ぎ、ひんやりとした空気が疲れた身体に心地よい。
少しの間だけ、彼は疲れを忘れて風と草木の匂いを楽しんだ。
「……あれ?」
ふと気付くと、不思議なものが視界に現れた。
まるで木々に隠されるようにして、西洋風の建物が月明かりに照らされている。
洋館と言っていい大きさだ。二階建てで、壁に刻まれた傷や塗料の剥離が年代を感じさせる。
「こんな建物、あったっけ……?」
先ほどまで、こんなものはなかったように思う。あるいは、月に気を取られていて気付かなかったのだろうか。
そんなふうに疑問に思いつつも、彼は地図とスマホのGPSを照らし合わせてみる。電波は緩いもののきちんと入ってきており、しっかりと現在地が表示されて、目の前の洋館が、彼の目的地だということが分かった。
「母さん……別荘でも買ったのかな?」
いつもどこに行っているか分からないし、なにをしているのかも不明な母親だが、昔から金だけはしっかり稼いできており、息子を飢えさせたことはない。
そんな母親なら、別荘のひとつくらいは買っていてもおかしくはない。おかしくはないのだが、買うならもう少し人里に近くてもよくないだろうかという疑問もあった。
「インターホンはないみたいだけど……呼ばれた以上は入ってもいい、よね……?」
もうすっかり日も落ちているし、歩き続けてへとへとだ。屋根のあるところで休みたい。
疲労によって足取りが重くなっていることを自覚しつつ、彼は屋敷へと近づき、扉を押した。
ぎ、という扉の音は古く、しかし動きそのものはスムーズだった。人の出入りがあり、ある程度の手入れがされている証拠だ。
足を踏み入れてみると、屋敷の中はゴミひとつ落ちておらず、まるで毎日掃除しているかのように綺麗なものだった。ランプの灯りがエントランスをあたたかく照らしていて、タイムスリップをしたような空気感がある。
外見の荒れ方とくらべてのギャップに戸惑っていると、しんとした空気を揺らすものがきた。
「……どなたですか?」
「あ……」
突然聞こえた声に、心臓が跳ねる。
彼をここへと呼んだ母親ではなく、彼の知らない何者かの声。
半ば反射的に声がしたほうへと視線を向けると、そこには息をむような美貌の女性がいた。
(銀色だ……)
まるで、銀の塊をそのまま薄く伸ばしたかのような、麗しいロングヘア。
白磁のような肌と整った顔の造形は明らかに日本人のそれではなく、揺れる紅の瞳には吸い込まれそうな雰囲気があった。異国人のためか、耳は不思議と尖っており、それもまた印象的だ。
特に彼の目を引いたのは、彼女が着ている服だった。
フリルに飾られた、ゴシックドレスのようにも見える衣装は、肌の露出は少ないものの、清楚で、魅力的に映る。
俗に言う、メイド服と呼ばれる格好だった。背景となった洋館の内装の雰囲気に、ぴたりと嵌っている。
そしてそんな服装をしていてなお、胸の膨らみや腰のくびれがしっかりと分かるほど、彼女の体型は完璧だった。
スカートと銀髪を揺らして、銀髪のメイドが彼へと近寄ってくる。髪と同じ銀のまつ毛をぱちぱちと動かして、彼女は覗き込むようにして彼の瞳を見つめた。
「あ、あの、えっと」
勝手に入ってしまったことを謝るべきだと頭では分かっているのに、眼の前の女性があまりにも綺麗すぎて、言葉が出なくなってしまう。
ふわりと香った花のような匂いが、余計に彼の思考をまとまらなくさせた。
「……もしかして、総士様ですか?」
「えっ……は、はい、そうです」
唐突に名前を呼ばれて面食らいつつも、彼はなんとか頷いた。
名前を呼んできた相手は紅い瞳を弓にして、言葉を紡ぐ。
「よかった……無事に到着なされたのですね。あなたのお母様から、お話は聞いています」
「あ、そう、なんですか……?」
相手が母親のことを言ったことで、緊張が少しだけ抜ける。
母親が指定した場所はこの洋館で間違いなかったようだ。
「あ……申し訳ありません、ご挨拶が遅れてしまいました。私はこの屋敷でメイドをしております、シルヴァと申します」
自己紹介ととともに、シルヴァと名乗った女性はスカートの端をつまみ上げて、優雅に一礼する。
垂れる銀の頭を綺麗だと思い、向けられてくる紅の視線に吸い込まれそうな錯覚を得ながらも、総士はなんとか思考を回す。
「メイドさん……母さん、別荘を買っただけじゃなくて、メイドまで雇ったの……?」
「いえ、雇われたわけではないのですが……それと、私の主人はあなたのお母様ではありませんよ」
「え……?」
何度目かにもなる総士の疑問に、シルヴァと名乗った女性は優しく微笑んで、
「総士様、私のご主人様は、あなたです。不束者の吸血鬼ですが、これからよろしくお願いしますね」
「……え?」
投げられてきた言葉は、少なくとも常識の範疇ではあまり聞くことがない単語を含んでいた。
もうしばらくの間、僕の疑問は続きそうだった。